この連載はフィクションです。登場人物・出来事は創作です。著者名の神崎和は本メディアの創作上のペルソナです。

 この国には、暦がある。  立春も、一粒万倍日も、厄年も、誰かが決めた区切りだ。  その区切りを、ただの迷信として通り過ぎる人と、  自分の一年をそこで折り返す人がいる。──これは、後者の図鑑である。

▶ 前回:〈一の酉〉の熊手を、彼女は毎年小さいまま買っていた


十二月の朝、りえは通帳アプリの数字を二度見た。

去年の同じ月の残高と、ほとんど変わっていなかった。差は一万八千円だった。

その年の四月に、彼女は昇給していた。年収でいえば四十万円ほど上がっている。手取りにすれば月に二万数千円。八か月経っていた。

「どこに行ったんだろう、と思って」

入り口を広げたのに、増えない

りえは四十一歳で、医療系の出版社にいる。編集の管理職になったのが、その四月だった。

昇給したとき、彼女は何も変えなかった。家賃も、車も、生活の水準も。贅沢をした自覚がまるでなかった。

それでも増えていない。

収入が増えても残高が変わらない、というのは、よくある悩みのひとつだ。風水の考え方を借りるなら、こう言えるかもしれない。

入り口を広げても、通り道が詰まっていれば、流れは変わらない。

北という方位

風水では、方位ごとに性質があるとされる。

北は、水の方位とされる。水は流れるものであり、溜まるものでもある。だから北は、流れと蓄えの両方に関わるとされ、お金の話をするときによく出てくる。

暗く、冷える方角でもある。日本の家では、北側に水回りや納戸が置かれることが多い。実用上も、そうなりやすい。

りえがその話をしたのは、昼休みに風水の本を広げていた部下の真帆だった。真帆は、家の北側に何があるかを聞いた。

「納戸です。あと、洗面所」

「じゃあ、その納戸を最後に開けたのって、いつですか」

彼女はしばらく黙ってから、「去年の冬にコートを出したとき」と答えた。

納戸から出てきたもの

その週末、りえは納戸を全部出した。

段ボールが四つ、使っていないスーツケースが二つ、扇風機が一台、そして書類の入った紙袋がいくつか。

紙袋の中に、封を切っていない郵便物が混ざっていた。

その中に、三年前に入った医療保険の証券があった。月に一万二千円。乗り換えたつもりで、前のものが止まっていなかった。

同じ袋から、使っていない駐車場の契約書も出てきた。車を手放したのが二年前で、契約は自動更新のままだった。月に一万五千円。

「合わせて月に二万七千円でした」

昇給ぶんと、ほぼ同じ額だった。

方位は、点検する場所を決める目印

これは、北を片づけたら金運が上がった、という話ではない。

起きたことは単純だ。何年も開けていない場所を開けたら、忘れていた固定費が出てきた。

ただ、それを言うだけでは、人は動かない。「家の中を点検しましょう」と言われても、なかなか手がつかない。範囲が広すぎるからだ。

方位は、範囲を狭める。

北、と決めれば、家の四分の一になる。その中で、いちばん開けていない扉を開ける。それだけの話になる。

風水の方位が長く使われてきたのは、こういう働きがあるからだ、という見方もできる。判断の対象を絞る装置として機能する。

通り道を空けておく

固定費を二つ止めたあと、りえは納戸の使い方を変えた。

半分だけ、意図的に空けておくことにした。

「入れようと思えば入るんですけど、入れないようにしてます」

空けておくと、何かを入れるときに「これは何か」を一度考えることになる。考えれば、入りっぱなしにはなりにくい。

翌年の十二月、りえの通帳の残高は、前の年より三十一万円増えていた。北を片づけたからではない。止まっていなかった引き落としを、止めたからだった。

今週、北を開けてみる

やることは一つでいい。

家の北側で、いちばん長く開けていない扉を開ける。中の紙類だけを見る。封を切っていない郵便物があれば、それを開ける。

物を捨てる必要はない。まず、紙を見るだけでいい。

止まっていない引き落としの知らせは、紙で届いていることもある。

りえの納戸には、いまも扇風機が置いてある。

「あれは使うので」


開運図鑑・第8回は、タロットの〈塔〉を引いた翌週に勤め先が消えた女の話。それを予言だと思わなかった理由を描きます。

✦ この記事のまとめ

収入が増えても残高が変わらないとき、問題は入り口ではなく通り道にあることがあります。

風水で北は水の方位とされ、流れと蓄えに関わるとされます。41歳の彼女が北を片づけて見つけたのは、存在を忘れていた固定費でした。方位は、点検する場所を決めるための目印として働いています。