この連載はフィクションです。登場人物・出来事は創作です。著者名の藤本環は本メディアの創作上のペルソナです。

 この国には、暦がある。  立春も、一粒万倍日も、厄年も、誰かが決めた区切りだ。  その区切りを、ただの迷信として通り過ぎる人と、  自分の一年をそこで折り返す人がいる。──これは、後者の図鑑である。

▶ 前回:昇給したのに、残高が動かない。彼女が家の〈北〉を片づけた冬


札が出た瞬間、まゆみは「あ」と言った。

塔だった。雷が落ち、石の塔から人が二人落ちていく絵。大アルカナの十六番。タロットを少しでも知っている人なら、まず名前を覚える札のひとつだ。

七月の午後で、外は蝉が鳴いていた。エアコンの効いた部屋で、彼女はその絵を見下ろしていた。

「悪いやつですよね、これ」

そう言って笑ったので、向かいに座った占い師の瀬尾も笑った。

「塔」がよく怖がられる理由

塔は、崩壊や突然の変化を示すとされる札だ。

積み上げてきたものが、外からの力で一気に崩れる。そういう絵として描かれている。だから「怖い札」として名前が知られている。

塔が出たとき、瀬尾がまず確かめることがある。

その人が、何を積み上げている自覚があるか。

塔の絵に描かれているのは、崩れる建物だ。つまり、そこには建物がある。何も建てていない人のところには、塔は出にくい──瀬尾は、そう読む。

彼女が積んでいたもの

まゆみは四十四歳で、六十人ほどの広告制作会社にいた。

十九年勤めていた。制作進行から入って、部長になり、その年は取締役の話も出ていた。

「積み上げてる自覚は、まあ、ありました」

十九年ぶんの人間関係と、社内でしか通じない手続きの知識と、彼女にしか回せない案件がいくつか。

そのとき彼女が持ってきた相談は、実は仕事の話ではなかった。親の介護をどう分担するかという、家族の話だった。

塔は、その質問に対して出た。

当てにいかない

札が出たあと、彼女は聞いた。

「これ、会社のことですか」

瀬尾は答えなかった。正確に言えば、こう答えた。

「どこが崩れるかを当てにいくと、たいてい外れます」

タロットで未来の出来事を特定しようとすると、読みは急に精度を失う。塔が会社を指すのか、家族を指すのか、健康を指すのか、札は言っていない。言っていないことを言わせようとすると、占い師の想像が混ざる。

代わりに、瀬尾はこう聞いた。

「いま、崩れたら困るものを三つ挙げてください」

三つのリスト

まゆみが挙げたのは、この三つだった。

会社の収入。母の在宅介護の体制。自分の腰。

「じゃあ、その三つが崩れたときに、次の日から何が必要になるか書いてみてください」

これは占いではない。ただの点検だ。けれど、塔を引いたあとなら、この作業に手がつきやすい。何もない日にやろうと思っても、なかなか始められない。

札は、点検を始めるための口実にもなる。

彼女はその週末に、三つぶんのリストを作った。

会社の収入が止まったら──職務経歴書が要る。十九年ぶん、一度も更新していなかった。生活費の何か月ぶんが手元にあるか、把握していなかった。

翌週に起きたこと

七月の終わり、会社の全体会議が急に招集された。

親会社の方針で、制作部門を縮小するという話だった。彼女の部署は、実質的に解散になった。

「塔じゃん、と思いました」

八月の初め、もう一度瀬尾の部屋を訪ねたとき、彼女はそう言った。そして、すぐにこう続けた。

「でも、当たったとは思わなかったんです」

なぜかと瀬尾が聞くと、こう答えた。

「あの週に職務経歴書を書いてたので。書いてなかったら、たぶん『当たった』って言ってたと思う」

的中譚にしないという選択

もし彼女が何もしていなければ、この話は「塔を引いた翌週に会社が潰れた」という的中譚になっていた。

的中譚は、面白い。人に話したくなる。けれど、話す以外に何も残らない。

彼女に残ったのは、更新された職務経歴書と、生活費の残り月数の把握と、母の介護を妹とどう分けるかの取り決めだった。

九月に、彼女は同業の会社に移った。役職は下がり、給与も少し下がった。それでも決断は早かった。

「準備してあると、選べるんですよね。準備してないと、来た話を受けるしかない」

塔が出たときに、やること

札を引いて、塔が出たら。

まず、当てにいかないことだ。どこが崩れるかを特定しようとすると、不安だけが増えて、行動が止まる。

代わりに、三つ書く。いま崩れたら困るものを、三つ。

そして、そのそれぞれについて、崩れた翌日に必要になるものを一つずつ挙げる。書類でも、連絡先でも、金額でもいい。

塔は、崩れる予告ではない。まだ崩れていないうちに点検できる、という合図として使うほうが、役に立つ。

まゆみは今も、年に一度は職務経歴書を更新している。

「あれ以来、塔が怖くなくなりました」


開運図鑑・第9回は、〈個人年8〉の一年の話。収穫の年に、彼女が初めて人にお金を貸さなかった理由を描きます。

✦ この記事のまとめ

「塔」は崩壊を示す札とされますが、当たったかどうかを競う読み方はほとんど役に立ちません。

44歳の彼女は札を点検の合図として扱いました。引いた週にやったのは占いの深掘りではなく、職務経歴の更新と生活費の確認です。備えがあれば、同じ出来事でも意味が変わります。