この国には、暦がある。 立春も、一粒万倍日も、厄年も、誰かが決めた区切りだ。 その区切りを、ただの迷信として通り過ぎる人と、 自分の一年をそこで折り返す人がいる。──これは、後者の図鑑である。
▶ 次回:〈吉方位〉で引っ越し先を決めた女。三年後、彼女はまだその街にいた。
十時を過ぎた台所で、みなみは通帳アプリを閉じた。
蛍光灯を落としたあとの部屋は、電子レンジの時計だけが青く光っている。九月の終わりで、窓を少し開けていた。外は雨の匂いがした。降ってはいない。降る前の、あの湿った匂いだけがしていた。
給料日は二十五日。今日は二十九日。四日で、残りは一万二千円だった。
「毎月これなんだよね」
声に出してみたが、聞く人はいない。ワンルームの部屋に、彼女ひとりだった。
みなみは二十六歳で、都内の中堅印刷会社で営業事務をしている。手取りは十九万。家賃七万二千円、光熱費と通信費で一万八千円、奨学金の返済が月に一万四千円。残りで食べて、着て、たまに友人と会う。計算上は、貯まらないわけではない。
計算上は。
家計簿が三日で終わる女
みなみは家計簿をつけたことが何度もある。何度も、というのは、何度も途中でやめたという意味だ。
アプリを入れる。最初の日は几帳面に、コンビニの二百八十円まで打ち込む。二日目も打ち込む。三日目、飲み会があって、レシートをもらい忘れる。四日目、思い出せない支出が千円ぶん残る。そこで「あとでまとめて入れよう」と思い、五日目には開かなくなる。
これを、彼女は入社してから四年繰り返していた。
「意志が弱いんだと思ってた」
後になって、彼女はそう振り返っている。けれど話を聞いていくと、意志の問題とは少し違う場所に、つまずきの石があった。
彼女の家計簿は、いつも給料日から始まって、給料日の前日で終わっていた。二十五日に入って、翌月二十四日に締める。会社がくれた区切りを、そのまま自分の一か月にしていた。
これは、たいていの人がそうしている。おかしなことではない。ただ、この区切りには、ひとつ厄介な性質がある。
なぜ「月末で締める」と続かないのか
給料日を起点にすると、一か月の終わりが、いちばん財布が薄い日になる。
二十四日。残高は一万を切っているかもしれない。そこで家計簿を締めて、今月の総括をする。当然、気分がいいわけがない。「今月もダメだった」で終わる。そして翌日には給料が入り、リセットされたような気持ちで、また使い始める。
締めと補充が、隙間なく続いている。反省する時間が、構造的にどこにも無い。
みなみが四年つまずいていたのは、根性ではなく、この区切りの位置だった。
彼女がそれに気づいたのは、去年の秋のことだ。会社の先輩に誘われて行った、神楽坂の小さな喫茶店でのことだった。
「じゃあ、締め日を自分で決めれば」
先輩というのは、経理にいる四十代の女性で、名前を千鶴といった。細かい人だろうと思っていたら、まったく逆で、机の上はいつも書類が積み上がっていた。
その千鶴が、注文したブレンドが来る前に、こう言った。
「給料日って、会社が決めてるでしょ」
みなみはうなずいた。
「でも、締め日は、みなみちゃんが決めていいんだよ」
意味がわからなかった。家計の締め日は給料日の前日だと、なぜか思い込んでいた。
「私は新月にしてる」
千鶴は、そう言ってスマホのカレンダーを見せた。月の満ち欠けが表示されるアプリで、細い黒い丸に「新月」と書いてある日があった。
「なんでですか」
「毎月ずれるから」
答えになっていない気がした。けれど千鶴は続けた。
「二十五日って、毎月二十五日じゃない。当たり前だけど。でも新月は、毎月違う日に来るの。二十九日半で一周するから、月の暦と少しずつずれていく。だから、毎月ちょっと違うところで立ち止まることになる」
運ばれてきたコーヒーに、千鶴はミルクを入れなかった。
「同じ場所で立ち止まってると、同じことしか考えないでしょ」
お金の区切り
新月は、月がいちばん細くなって、見えなくなる日だ。
暦のうえでは、そこが月の始まりとされてきた。旧暦の一日は新月の日で、十五日あたりに満月が来る。十五夜という言い方は、そこから来ている。月の初めは、光が無いところから始まる。
星野は──私は月齢を扱う仕事をしているので、この話を鑑定の場でよくする──新月を「始まりの日」として説明することが多い。願いを立てる日、始める日、と言われることも多い。
ただ、みなみの場合に効いたのは、始まりのほうではなかった。
新月を締め日にすると、次の給料日までに、数日の空白ができる。
たとえば新月が二十日に来たとする。そこで先月ぶんを締めて、集計する。残高はまだ少し残っている。二十五日に給料が入るまで、五日ある。この五日が、彼女にとっては初めての「反省できる時間」だった。
財布が空でもなく、補充されてもいない。少しだけ残っている状態で、先月を眺める。
「はじめて、責めない気持ちで見られたんです」
彼女はそう言った。
翌月、新月は十九日に来た。その次は十七日。毎月、少しずつ前にずれていく。同じ日に立ち止まることが、一度もなかった。
一年後の残高
みなみが新月締めを始めて一年が経った。
貯まった額は、劇的というほどではない。十一万円ほどだと本人は言っていた。月に一万弱。手取り十九万の生活からすると、そんなものだろうと思う。
金額よりも、彼女の話しかたが変わっていた。
「今月は使いすぎたな、じゃなくて、今月は何に使ったなって言えるようになりました」
以前の家計簿は、三日で終わっていた。いまは終わらない。締める日が毎月ずれるので、「今月ぶんはもう終わったこと」として区切れる。次の新月まで、また別の一か月が始まる。
奨学金の返済は、まだ六年残っている。家賃も変わらない。手取りも、去年から三千円しか増えていない。
変わったのは、一か月をどこで切るかだけだった。
今月、新月の日にやること
もし試してみるなら、やることは二つでいい。
ひとつは、今月の新月がいつか調べること。月齢のわかるカレンダーアプリなら、たいてい表示される。国立天文台の暦のページでも確認できる。
もうひとつは、その日の夜に、通帳アプリを開いて残高を見ること。それだけでいい。何も書かなくていいし、分類もしなくていい。ただ、その日に見る。
千鶴はこう言っていたそうだ。
「続かないのは、やることが多すぎるからだよ」
みなみは今も、月に一度だけアプリを開いている。細い月が出る日に。というより、月が見えない日に。
雨の匂いがした九月の夜から、一年が経っていた。
開運図鑑・第2回は、〈吉方位〉で引っ越し先を決めた女の話。「動く方位」を選んだはずの彼女が、三年後もその街から動かなかった理由を追います。
✦ この記事のまとめ
貯まらない理由を「手取りの少なさ」に置いているうちは、家計はほとんど動きません。26歳の彼女が変えたのは金額ではなく、一か月をどこで区切るかでした。
給料日から給料日までを一か月とすると、締めが「使い切った状態」で来ます。新月を締め日に置き直すと、締めと補充のあいだに数日の空白が生まれる。その空白が、彼女の一年を変えました。


