「なぜ私だったんでしょう」
この問いを持ってくる人がいる。病気のこと、事故のこと、失ったもののこと。
占いを扱う場所には、この問いが集まりやすい。
答えが用意されている、という危うさ
星野は──私は月齢と体のリズムの話を長くしているので、この場面に何度も立ち会ってきた──占術の側には、答えの型がいくつも用意されていることを知っている。
厄年だった。運気の谷だった。方位が悪かった。行いが返ってきた。
どれも、当てはめれば説明になる。
説明になるので、その場では収まる。ただ、収まったあとに何が残るかを見てきた。
「自分のせいだった」という結論が残る。
これは、いちばん渡してはいけないものだと思っている。
原因を本人に返さない
体の不調に、本人の落ち度を割り当てる説明を、私はしない。
行いが悪かったから。心の持ち方が原因だから。感謝が足りなかったから。
こうした説明は、すでに苦しんでいる人に、もう一つ荷物を渡すことになる。
そして、その荷物は下ろせない。過去は変えられないので、下ろす方法が無い。
暦にできること
では暦は何もできないのか、というと、そうでもない。
理由を言い当てることはできないが、いまどこにいるかは示せる。
九星にも四柱推命にも、厄年のような考え方にも、共通しているものがある。
周期がある。 上がり続けることも、下がり続けることもない。
これは因果の説明ではない。位置の説明になる。
「なぜ起きたか」には答えていない。「これがずっと続くわけではない」ことだけを言っている。
答えないまま、そばに置ける情報というものがある。暦の役割は、たぶんそちらになる。
問いを消そうとしない
もう一つ。
「なぜ私が」という問いを、早く手放させようとしないほうがいい。
前向きになりましょう、意味があったんですよ、と言われて、余計に孤立する人を見てきた。
問いは、残っていていい。
答えが出ないまま、何年も抱える人がいる。抱えたまま生活は進む。進むうちに、問いの重さが少しずつ変わる。
消えるのではなく、軽くなる。そういう変わり方をする。
体の側から見ると
実務的な話も書いておく。
「なぜ私が」が強く出る時期には、傾向がある。
診断の直後。治療の切れ目。季節の変わり目。眠れていないとき。気圧が大きく動いた日の翌日。
問いの強さが、状態と連動していることがある。
これに気づくと、少し扱いやすくなる。問いが強い日は、決断をしない日にする。強い日に人生の意味を決めると、たいてい厳しい結論になる。
受診を先延ばしにしない
はっきり書いておく。
体調に不安があるとき、暦を理由に受診を遅らせないでほしい。
日が悪い、時期が悪い、という理由で先延ばしにするのは、暦の使い方として本末転倒になる。
暦は、動く日を決めるためのもので、動かない理由を作るためのものではない。
気になることがあるなら、いちばん早く行ける日に行く。日取りはそのあとの話になる。
今日やること
ひとつだけ。
問いが強く出た日を、記録しておく。
日付だけでいい。三か月ぶん並ぶと、波があることが見えてくる。
波が見えると、強い日は強い日として、そのまま通り過ぎるのを待てるようになる。答えは出ないままでいい。出ないまま過ごせるようになることのほうが、実際には助かる。
✦ この記事のまとめ
「なぜ私が」という問いに、因果を当てはめる答え方は本人を追い詰めます。原因を本人の落ち度に求める説明は、暦の使い方として適切ではありません。
暦にできるのは理由づけではなく、いま自分がどの局面にいるかを示すことです。問いを消さずに、抱えたまま過ごす助けになります。



